フィレンツェ観光・Uffizi美術館 「彫刻 マルシアス」
Uffizi美術館には、絵だけではなく多くの古代彫刻があります。
通路の左右にはローマ時代の彫刻が沢山飾ってあります。
メディチ家は古代作品にも興味を持ち、ローマで発掘されると、それを買い取ってローマのヴィラメディチなどに集めていました。
メディチ家が終わり、あとを継いだロレーヌ家の時代になると、これらの作品がフィレンツェに沢山運ばれてきます。Uffizi美術館の他にはPitti宮殿、ボーボリ庭園でも見ることができます。
その中でもちょっと目を引くのがこの2体のマルシアスです。
ちょうどヴェッキオ橋が良く見える大きな窓の近くに通路を挟んで1体づつあるのですが、特に左側のマルシアスの顔が生々しくて、ぎょっとしてしまいます。
マルシアスとはギリシャ神話に出てくる自然の精霊サティロスの一人で、アウロスと言う2つの管のあるフルートのような楽器の名手でした。
元々これを発明したのはアテネの女神でしたが、彼女が吹いてみると、頬っぺたが膨らみすぎて変な顔になってしまい、友人からからかわれてしまった為に、この楽器を捨ててしまいます。
それをマルシアスが見つけて、この楽器のエキスパートになります。
あまりにも自信がついた為に、大胆にも芸術、音楽の神様であるアポロンに挑戦してしまいます。
アポロンは竪琴で、マルシアスはこのアウロスと言う楽器で勝負をします。
最終的にアポロンが勝つのですが、この音楽合戦では勝者は敗者に何をしても良いことになっていたそうで、「神に挑戦するとは思いあがった奴だ」と、生きたまま皮を剥がれることになってしまったのです。
ここには2体のマルシアスがありますが、2体とも紀元前3世紀頃のギリシャ時代の彫刻をローマ時代にコピーした物で、紀元後2世記の物とされています。
両方とも木に縛り付けられて、丁度その拷問が始まる瞬間が表現されています。
1枚目のマルシアスは白い大理石でできているため白いマルシアスと呼ばれており、頭を胸の方に傾けています。足と腕の部分は欠けていたため、1500年代の彫刻家(名前は不明)によって修復されました。
拷問の用意をしているのを待っている所で、痛みと恐怖が顔によく出ていますが、手は完全に固定されており、自分の運命を受け止めているのがわかります。
2枚目のマルシアスはちょっと赤みのある大理石でできているため、赤いマルシアスと呼ばれています。
よく見ると全体的に、本当の筋肉の色のように赤っぽくなっているのがわかります。
こちらは顔を真っ直ぐ上げていますが、胸の筋肉が緊張していて、同時に処刑に反抗する怒り、痛み、挑戦の混じった表情をしています。
しかしこちらの赤いマルシアスの頭、胸、両腕は、ルネッサンス時代の彫刻家ミーノ・ダ・フィエゾレ(Mino da Fiesole)によってほとんど作り直されているので、このマルシアスの表情などは古代彫刻とは全く違うものなのですが、歯を食いしばって処刑の瞬間を待っている、不安げな顔に迫力がありますね。
神話とは言え、なんと残酷な拷問だったのでしょう!
ウッフィツィ美術館でイタリア芸術の秋を感じる「ボッティチェッリ・もう1枚の東方三博士の礼拝」
ボンジョルノ!フィレンツェのガイドの伊藤裕紀子です。
10月終わりにウッフィツィ美術館に行ってみたところ、いつもボッティチェッリの「東方三博士の礼拝」が展示されている場所に見慣れぬ作品がありました。
係員に聞いてみたところ、元の作品は香港での特別展のため貸し出し中とのこと。
代わりに置かれている作品も、ボッティチェッリの同タイトルの作品でした。
こちらは見たことがないのでかえって新鮮。
【東方三博士の礼拝】
「東方三賢王の礼拝」「マギの礼拝」とも呼ばれる新約聖書の場面です。
ユダヤの王を捜して東方から星に導かれてやって来た三博士(マギ)は、ペルシア宮廷に仕える占星術師たちでした。
彼らはヘロデ王の配下からベツヘレムに向かうようの指示を受け、彼の土地で誕生した救世主の御子に出会います。そして黄金、乳香、没薬の3つの贈り物を捧げました。
普段ウッフィツィ美術館でみることができるボッティチェッリの「東方三博士の礼拝」は1475年ごろの作品で、メディチ家のメンバー(コジモ、ロレンツォ、ジュリアーノ)がイエスを取り巻く人々のなかに書き込まれています。
そして現在展示されている作品は1490~1500年ごろの作品ということで、もっと後年の絵画です。ドメニコ修道会のサヴォナローラの説教の影響から、神秘主義へと傾向していったボッティチェッリ。
制作活動の最終フェーズの作風へと移行しているのがわかります。
多くの人々を引き連れた三博士は聖母マリアに抱かれたキリストに出会い、その前に跪いています。
この作品はボッティチェッリが完成できなかったらしく、マリア様の部分には17世紀ごろに筆が付け加えられています。
背景の人間や岩には色が塗り重ねられていないことがわかりますね。
同じ芸術家でも初期、盛期、晩年と作風が変化していく様子が見受けられることが多いのです。
ドナテッロやミケランジェロ同様、ボッティチェッリも後年にキリスト教の精神へ帰依していく、その経過を見るのはとても興味深いですね。
トッリジャーニ庭園
ボンジョルノ!フィレンツェのガイドの伊藤裕紀子です。
イタリアではA.D.S.I(Associazione Dimore Storiche Italiane)という組織が、歴史的建造物(現在は個人の邸宅や庭園)の無料見学デーを設けており、今年は10月4日でした。
このプログラムに参加して、フィレンツェのトッリジャーニ庭園を見学してきましたので、今日はその様子をお伝えします。
この庭園はフィレンツェの市壁の南側に接する、19世紀に造られたロマン主義スタイルの庭です。
ルドヴィーコ・マリア・トッリジャーニ枢機卿がひ孫のピエトロ・トッリジャーニ侯爵に遺産として渡した土地に造成されました。
プロジェクトはフィレンツェ生まれの建築家Luigi de Cambray Dignyによります。ルイージの後を継いだ若きGaetano Baccaniによって完成されました。
フィレンツェの代表的なイタリア式庭園(テラスや人工物を使った幾何学式庭園)ではなく、自然な景観美を追求したイギリス式庭園となっています。
またピエトロ・トッリジャーニがフリーメーソンのメンバーであったため、そのシンボルも挿入されています。
10ヘクタールもある広大な土地は昼のゾーン(広く明るい草原)と夜のゾーン(人工的な丘の上の森)に分かれています。
平地の向こうに見えるのは三つ星ホテルAdAstra、ここに泊まって2階テラスから庭を見下ろすのも良さそうですね。
見学コースでは近寄ることができませんでしたが、この平野の中央には彫刻家ピオ・フェーディ作「セネカと若きピエトロ・トッリジャーニ」の像があります。
それ以外の苔むした彫刻作品もロマンチックな雰囲気を醸し出しています。
そしてこの庭園で最も有名なのがバッカーニによって造られた塔です。
三層に分かれた塔は俗世からフリーメーソンの世界への昇華を表現しているそうで、係員の方が「上の階が円筒形になっているのは、円が完璧のシンボルだから」と説明していました。
建築当初は塔の中に図書館や天文学の器具を保管する部屋があり、頂上では天体観測ができるようになっていたとか。
また庭の一部は植木屋として使用されていて、ヴェッキオ宮殿(フィレンツェ市庁舎)の式典などに貸し出されるそうです。
石畳の道から一歩入った場所にこのような広大な庭があることにまず驚きました。気持ち良い秋の散策もできて、まだまだフィレンツェの魅力は奥深いなと感じられた1日でした。
Uffizi美術館でふと見逃してしまう作品 3
今日はフラアンジェリコが描いた(テーベ地方隠者達)をご紹介したいと思います。
この絵の作者については色々な説があり、私がイタリアに来て最初に買った1500リラの(現在の8ユーロ弱)ウッフィッイ美術館のカタログでは、ゲラルド・スタルニナの作品となっていました。
1420年頃の作品で、現在はフラアンジェリコの絵として断定されています。
Uffizi美術館でこの絵だけ床から65センチの高さ、低い所に飾られています。
理由は、すごく魅力的な絵でおとぎ話のような絵の為、特に子供に人気があり、子供の目線で見れるように飾ってあるからなんです。
この作品は紀元4世紀に、聖パコミアがエジプトのテーベ地方に創立した場所で、隠居し修行を行う修道士の生活を描いたものです。
祈りと孤独、労働で一生を過ごしていました。
どこからともなく射す月の光に照らし出された夜景は、少し神秘的です。
この岩だらけの景色の中で、修道士や隠者の毎日の生活が描かれています。
当時、このテーマはよく描かれ、アカデミア美術館にもウッチェッロが描いた絵があります。
ここでは自然が食糧を与え、他の世界から隔離して平和に過ごしているという事ですが、よく見ると不思議な生活やいろいろな動物を見つけることが出来ます。
1人の修道士は、木のへこみに住んでいます。
また聖ベネディクは洞窟に住んでいますが、誰かが上から食事をかごで運んでいます。
またライオンの車に引かれた人。その右には小さな柵があって、他の人との境界が区切って在り、手前では仕事、奥では静けさにふけっている様子が描かれていますが、これは活動的な人生と、瞑想的な人生を表現していると言われています。
そのすぐ右では男が荷を載せたロバを扉の方に押していて、その上には懺悔の礼拝堂で告知を聞く修道士、その上では天使を見た恍惚状態の修道士、などなどです。
川にはクロコダイルもいて、カラスが口からパンを落としていて、それを聖パウロとアントニオが分けていたり、他にもヤギが乳を搾らています。
ここには日常生活が沢山描かれてる訳ですが、これはフラアンジェリコの「人間と動物の関係」についてのメッセージでもあると思われます。
孤独や祈りは必要であるけれども、お互いに助け合い、「自然をリスペクトしなさい」ということです。
船が小さかったり、建物が小さくて修道士が入れない建物もありますが、実際の景色と似ています。
作者はすべての細部までを描き、毎日の生活、木の葉、石ころ、波などリアルな景色を表現しています。
写真では細かい所がわからないのですが、是非Uffizi美術館に来られた時は近くで見てください!
私の人生を予言した不思議な女性のはなし
私は、音大の卒業式の次の日に渡米して、1993年にニューヨークからローマに旅をしにやって来た青年。。。だった。
1991年の第一次湾岸戦争の時はニューヨークにいた。
その時、国連やその近辺のオフィスなどは、テロの危険性のために封鎖されてしまっていたのだが、そこで仕事にあぶれた奴らが、私の行きつけのクラブにも飲みに来ていたので、彼らとしばしば世界情勢やその裏話について語り合ったものだ。
ある晩、私はいつものクラブに行こうと、いつものようにタクシーを止め、乗車すると、ドライバーは女性だった。ちょっとふくよかで、上まぶたがふっくらした綺麗な女性だった。
ニューヨークは当時アメリカで最も犯罪率の高い都市だったので、「こんなに遅い時間に女性で、危ないことはないのですか?」と尋ねると彼女は「私は、未来がよめるんです。」と言う。
私は論理的でない事など信じない人だったので、ホントにニューヨークには変わった人間がいると思った瞬間、彼女は私の単純な未来を話し始めた。それは「あなたはもうすぐ長い旅に出るでしょう。」から始まるものだった。
それからたったの1週間後に私は、今はなきTWA航空でローマを訪れ、それ以来、今もローマにいる。
あの時、あのタクシーに乗った時、バックミラーに写った私の姿から、どうやってこのことを言い当てることが出来たのだろうか、、、不思議でたまらない。
今でも私は非科学的な事など信じないのだが、なぜか今私は、彼女があの時に言った長い旅をしている最中なのだと思えてくるのである。
実は、私がローマに来た時、ガイドブックも持ってこなかった(あはは)。今のように携帯はおろか、スマホやインターネットもない時代だったので、ローマがこんなに重要な観光地だったなんて事は、実は知らなかった(おほほ)。
私がローマに来た理由は、単に誰かと出会いたい的な不純な理由からだったのです(いひひ)。
それはともかく、どうやらこの私の長い旅とは、多くの旅人を案内するための旅のことだったようだ。
今や私はイタリア政府公認ガイドの免許を取得して、日本の旅人をローマやその他イタリアの各地に案内させて頂いている。
その時私が話す事は、歌って踊って恋しての平和なイタリア人のことや、美しい街の美術品、偉大な建造物の話ばかりではない。
その平和を守るために起こった数多くの戦争の話しである。
そういえば近年も世界は私たちが夢見るような常に平穏なものではなかった。
2001年の同時多発テロ事件に続いて、第二次湾岸戦争、各地で起こるイスラム原理主義者によるテロ事件、さらに私たちを産んだ自然界でさえも、時には私達をふるいにかける。
今回の目に見えない敵は、たくさんの人々の命を奪った上に、企業が倒産したり、観光業界にも打撃を与え続けている。
考えてみたら私たちのような生命は、戦いに勝つために進化して来たのだから、これも自然の摂理なのかもしれない、なぁんて理屈に酔っている場合ではない。
ローマの観光客は3月の頭からゼロになり、すぐさまイタリアは2ヶ月以上のロックダウンで外出禁止地獄。
それが解除された今、街は活気を取り戻しつつあるように見えるのだが、余談は許されない。
いつまでこんな状態が続くのだろうか。
こんな時にあのちょっとふくよかな女性のキャブドライバーが現れてくれたら、私にこれからの未来を教えてくれたかもしれないのだが。あの方は天使のようだったな~。
そういえば、ローマはたくさんの天使がいる街。
サンタンジェロ橋にかかるベルニーニ作の天使像
幽霊がたたずむ窓
ボンジョルノ!フィレンツェのガイドの伊藤裕紀子です。
以前、お客様に「心霊スポットを案内してください」とリクエストを頂いたことがあります。
しかし私は霊感0なので、有名な幽霊話がある場所をご案内差し上げました。
それがサンティッシマ・アンヌンツィアータ広場に面したブディーニ・ガッタイ宮殿です。
16世紀にバッチョ・ダーニョロが設計し、アンマンナーティが完成させた宮殿です。アンマンナーティはミケランジェロの設計からインスピレーションを受け、ガッタイ宮殿の建築に役立てたと言われています。
この建物の三階、一番右の窓をご覧ください。よろい戸が半分折り曲げて開いています。
この内側の窓がいつも開けたままになっているんです。
この窓に関して二つの言い伝えが残っています。
【伝説1】
ある貴族の女性がこの窓から外を眺め、恋人が戦争から帰ってくるのを待っていたそうです。窓の横に椅子を置き、縫い物をしながら、くる日も来る日も…
しかし恋人は帰ってこず、女性はその部屋にこもって死ぬまで離れませんでした。
彼女の遺体が部屋から運び出された後に、親族がその窓を閉めようとすると大きな音がして、親族は窓を再び開けざるをえなかったそうです。
それから窓はいつも開けられ、よろい戸も半分開けられて、広場が見下ろせるようになっています。
【伝説2】
宮殿前の広場にはメディチ家の当主フェルディナンド1世の騎馬像があり、その視線がちょうどこの窓に向いています。
実はこの部屋にフェルディナンド1世の恋人が住んでいました。
女性には夫がいましたので、つまりはフェルディナンドと不倫関係だったのです。
夫は女性がこの窓を開くことを禁止していました。
たとえブロンズ製の騎馬像とはいえ、妻が恋人をうっとりと眺める姿を見たくなかったのでしょう。
伝説2から伝説1が生まれたとされますが…
この建物が16世紀に建設された時は2階建でした。3階は18世紀に増築されてできたので、伝説2もありえないのですね。
どうやら館の主人の奥さんの不倫騒動が、伝説2の由来なんだそうです。
とにかくも3階の窓がいつも開いているのは真実なので、宮殿前を通りかかる時にこんな話をしてみるのも面白いですね。
フィレンツェの町を歩いていてふと目につくもの その2
皆さんこんにちは!フィレンツェ公認ガイドの福島久子です。
こちらも実は最近気になったものですが、建物の角に変な小さなブロンズ像があります。
よく通りかかっていた道ですがあまり気にしたことがありませんでした。しかし近くで見てみるとなんか不気味。。。
調べてみるとジャンボローニャが作った(小悪魔)と呼ばれているブロンズ像のコピーでした。本物は現在バルディーニ美術館にあります。
これは元々旗を立てかけておく支えの為のもので、この宮殿の所有者であったベルナルド ヴェッキエッティ (Bernardo Vecchietti)がジャンボローニャにある奇跡を記念して作らせたものです。
実は2つ作ったようなのですが、現在残っているのは一つになってしまいました。
ヴェッキエッティ家はダンテの神曲天国編にも出てくる、中世からの重要な貴族の一族です。
この宮殿は1578年にベルナルド ヴェッキエッティ がジャンボローニャに改修を頼んだ宮殿ですが、彼はこの宮殿以前にあった美しい中庭をそのまま建物に取り組みます。
しかし現在、昔のまま残っている部分はヴェッキエッティ通りの長い正面だけとなりました。他の部分は1800年代に一部壊されたり改修されてしまいました。
その奇跡とは。1245年、メルカートヴェッキオ(Mercato Vecchio)と当時呼ばれていた現在の共和国広場で、殉教者聖ペテロが異端者に対する説教をしていた時に、それを聞きに来ていた群衆を脅かし、分散させるために狂った黒い馬に似た姿をした悪魔が現れました。
ドメニコ派の聖ペテロは危険を察知して、手を挙げて馬の前で十字架の形を型どると、ヴェッキエッティ宮殿の角で馬は止まり、そのまま消えてしまったと言われています。
ジャンボローニャはこの奇跡の話からヒントを得てこの作品を作ります。
この小悪魔の彫刻はフィレンツェに着いたばかりのジャンボローニャを、彼らの宮殿に迎えてくれたそのお礼の意味でも作られたのではないかと考えられます。
ヴェッキエッティはジャンボローニャの保護者でもありました。
ちなみにこのジャンボローニャという彫刻家はフランドル地方、現在のフランスで生まれ、1550年にローマに移り住み、特に古代の彫刻について学びます。
特にミケランジェロに影響を受け、1553年にフィレンツェに移り住み死ぬまでフィレンツェにとどまります。メディチ家の重要な宮廷彫刻家の一人となります。
例えばシニョリーア広場のコシモ一世の騎馬像、ロッジャにあるサビーナの略奪や、サンテッシマ、アヌンチャータ広場の フェルディナンド1世の騎馬像も彼の作品です。
現在この宮殿はホテルと銀行が入っていますが、こういう何気なくある物にもそれぞれ歴史があって面白いですですね。