myurome’s diary from Italy

イタリアから現地の最新情報や各都市の公認ガイドからの観光情報をお届けします♪

2021年【ブログバーチャル観光】ミケランジェロの〇〇な説

こんにちは。フィレンツェガイドの福島です。

 

今回は、ヴェッキオ宮殿の正面入り口右側、ニンナ通り(Via della Ninna)の 近くの壁の目立たない場所に彫り込まれた男の横顔についてお話したいと思います。

 

 

伝説では、これはミケランジェロが彫ったと言われています。

 

幾つか説はありますが、今回は2つ有名な説をご紹介します。

 

まず一つ目の説は、ミケランジェロは自分の仕事場に行くために、このニンナ通りをよく通っていたそうです。

 

そこにはいつもミケランジェロを質問攻めにしたり、つまらないリクエストで邪魔をしたり、お金を要求したりする彼を悩ませる男がいたそうで、いつもよけて通らなければなりませんでした。

 

ある日ミケランジェロはこのいつも邪魔をしてくる男の横顔を、ヴェッキオ宮殿の壁に彫り込んでやろうと思い彫刻刀を持参することにします。

 

ここでミケランジェロは才能を見せます。

 

彼の存在に嫌気がさしたミケランジェロは、彼の話を聞いているふりをしながら、背中に腕を回し後ろ向きでこの横顔を彫ったのです。

 

男はそれに気づいて「おお、私の鼻はこんなに大きくない」と文句をつけたそうですが、それに対してミケランジェロは「私の指には目はないんですよ」と言い返したそうです。

 

その日を境に、この男はミケランジェロを邪魔しなくなったと言われいます。



もう一つの説は「罪人の顔」と言われています。

 

 

ミケランジェロは借金で首が回らなくなった罪人が、偶然シニョリーア広場を通っているのを見かけます。

 

この罪人には、ミケランジェロ自信もお金を貸していたと思われます。

 

この罪人は木のけたに結び付けられており、広場のポルティコの下で(Loggia dei Lanzi)で処刑されるところでした。

 

処刑の方法は、2つの木のけたに手と頭を結び付け、首にはその罪を書いた札をぶら下げられた罪人が、市民にののしられたり体罰を与えられたりするものでした。 

 

ミケランジェロは見張りの役の男に「どのくらいこの男は木に縛りつけられているのか?」と聞き、答えを聞くと「それは短すぎる」と言ったそうで、フィレンツェの人がずっと彼のことを忘れないよう不滅にする為にこの横顔を彫り込んだとも言われています。

 

どちらにしろちょっとユーモアがありますね。ヴェッキオ宮殿に行ったら是非この顔を探してみて下さい。

【おうちごはん】家で作れる本場のイタリアン!カーヴォロ・ネーロのパスタペースト

こんにちは!フィレンツェのガイド岡本です。

 

こちらでは今年は早くも1月の末には

ミモザ開花しましたが、まだ結構寒い日が多く

春まではもう一息です。

 

そこでこの季節ならではの食材を使った

パスタなどに使える簡単なペーストのお話です。

 

イタリアンのペースト、といえばなんと言っても

爽やかなバジリコのペースト、ジェノベーゼですが、

冬には旬の冬野菜を使ってみるのもオツなものです。

 

冬にトスカーナ地方を中心とする中部イタリアに出回る

カーボロ・ネーロ黒キャベツ

 

アブラナ科の野菜で日本でまったく同じものは見かけないかもですが、

国内でも一部で生産されているケールの仲間です。

 

 

黒キャベツといえども、実際は黒ではなく美しい深い緑色。

"私には大地の恵みが凝縮されています!"という主張が

感じられるかのようです。

 

いわゆる一般的なキャベツよりも味わいが濃く、

単にゆでてオリーブオイルとレモン汁などで和えて

食べるのも美味しいですし、こちらトスカーナ地方の

郷土料理のリボッリータ(パンと野菜の煮込み料理)の材料にも

欠かせませんが、フィレンツェのどこかのレストランの

メニューにこのペースト、というメニューがあったことを

思い出し、作ってみました。

 

 

松の実ニンニク少量唐辛子少々をフードプロセッサーで攪拌し、

あらかじめ2,3分ゆでて冷ました黒キャベツの葉とそのゆで湯少々を

加えてさらに攪拌。

器に取り出してオリーブオイル(できるだけ良質の)適宜を混ぜて

ペーストにちょうど良い濃度にします。

 

 

このままでもパンに塗るだけでもとっても美味しいですが、

是非ゆでたパスタに和えましょう!その時にはやはり

パルメザンチーズをプラスするとコクが出ます。

 

 

写真ではリングイネを使っていますが、フジッリなどの

ショートパスタにもバッチリです。

 

日本ではケールで類似のものが作れると思います。

 

そして是非イタリアにいらっしゃった際には

カーボロ・ネーロを使った本場のお料理を

食べてみてくださいね!

【2021年・ブログバーチャル観光】フィレンツェ 洗礼堂の近くにある3本の柱

洗礼堂の北側にサンザノビの柱と呼ばれている白い大理石の柱があります。

 

 

サンザノビはフィレンツェで最初の司教で、4世紀の半ばにフィレンツェで生まれました。

 

裕福で権力のあるのジロラミ家(Girolami)出身で、旧市街のランベルテスカ道りに家をもっていました。

 

ここには現在でもジロラミ家の片隅(Canto de’Girolami)と言う碑が残っていて、彼らに捧げられた通り、ジロラミ通り(Via de’Girolami)も残っているので重要な一族であったことがわかります。

 

サンザノビは幾つかの教会(例えばサンロレンツォ教会)を建て、さらにはフランス人の巡礼者の息子を生き返らせたなど、色々な奇跡も起こしました。

 

そして417年から429年の間に亡くなります。

 

伝説によると、聖人の遺体を420年にサンロレンツォ教会からサンタレパラータ教会(現在のドゥオーモができる前にあった小さな教会)に運んでいる時に、サンジョバンニ広場に一本の枯れたにれの木があり、遺体を入れたお棺がこの木に触れた突端に、木に葉がつきだしたと言われていいます。

 

この奇跡の話はアカデミアび美術館にあるリドルフォ・デル・ギルランダイオの絵にも描かれています。

 

 

その木はその後何百年もありましたが、イベントを記念して、最初の柱が御影石で作らました。

 

しかし、1333年の洪水で傷んだ為、現在残っている白い大理石の柱に作り替えられました。

しかし実際に彼の遺体が運ばれたのは9世紀くらいであったとも言われています。

 

現在、彼の遺体はサンタ・マリア・デル・フィオーレ教会のロレンツォ・ギベルティが作った壺の中にあります。

 

もう2つの柱は、洗礼堂の天国の扉の両脇にある斑岩の紫色の柱です。

 

 

斑岩はとても貴重な石で、当時のフィレンツェではとても珍しい大理石でした。

 

↑拡大した写真。

 

フィレンツェとピサはずっと敵対関係でしたが、1117年にピサの町がフィレンツェの町にこの2本の柱を贈ります。

 

これはバレアレス諸島(スペインのマヨルカ島)にてサラセン人の海賊(イスラム教徒)と戦っていたピサ共和国をフィレンツェが助けて勝利を導いたお礼に贈ったものです。

 

この2本の柱はマヨルカ、ミノルカからの戦利品でとても光沢があったため、その反射で法で罰せられなかった人達の顔が見えるという特別な柱でした。

 

フィレンツェ人はこれを、まずアルノ川を船で運び、そこから壊さないよう注意してさらに運んだ末には、大きなお祭りを行う予定でした。

 

ところがフィレンツェ人が着いた柱を見ると実際には罰せられなかった罪人の顔が見えるわけでもなく、くすんだ色の何も反射しない柱だったのです。

 

何故ならばピサ人はいやいやこの光沢のある柱を贈ったので、フィレンツェに船で運ぶ前の日に、この柱の周りに大きな火を焚いてその輝きを消してしまい、反射しないように、何も見えなくなるようにしてしまったのです。

 

これは贈り物ではなくて詐欺である、と言うことでこの2つの都市の間に根深い憎しみが生まれてしまいました。

 

2世紀たってもフィレンツェ人の怒りは収まらず、1362年にフィレンツェ軍がピサの港を征服したときに、港の大きな2つの錨をフィレンツェに運び、この2つの柱にかけておきました。

 

ここからフィレンツェ人は、ピサ人をめくらで裏切り者だと言うようになったそうです。

 

そう言われてみれば現在でも2つの都市のライバル意識は残っているように感じられますね。

【2021年イタリア】フィレンツェのカーニバル時期ならではのお菓子をご紹介!

こんにちは!フィレンツェの食べること大好きなガイドの岩本です。

 

 

カーニバル(謝肉祭)の時期です。

 

 

華やかな仮面をつけた、仮装のお祭りみたいに思ってらっしゃる方も多いかもしれませんが、キリスト教の宗教行事の一つなんです。

 

 

カーニバルという言葉は、 carne(肉)levare(取る)という二つの単語からできてます。

 

 

肉断ちをするという意味で、日本では謝肉祭と訳されてます。

 

キリストが復活される前に四旬節(40日間)という生活を質素にしたり禁欲したりして心身を清める浄化期間の前に、身分や性別、素性を隠すために仮面をつけて、みんなでドンチャン無礼講を楽しんでしまおうという趣向です。

 

2021年のカーニバルは1月30日から2月16日までです。

 

 

ここフィレンツェの、カーニバル時期ならではのお菓子をご紹介しましょう。

 

 

 

 スキアッチャータ・アッラ・フィオレンティーナ

(Schiacciata alla Fiorentina

 

 

本来はカーニバル最後の日に食べるスポンジケーキの一種ですが、最近はカーニバル中はどこのバールでも楽しめます。

 

フィレンツェの紋章が粉砂糖か粉ココアで配われて(あしらわれて)います。

 

 

この紋章の切り抜き型、今回は自家製です!

 

 

 

チェンチ(Cenci )

 

イタリア中で作られている薄いサクサクした揚げ菓子です。

 

トスカーナではチェンチ(Cenci)と呼ばれ、地域で呼び名が変わります。

ブジエ(Bugie)、フラッペ(Frappe)、キアッケレ(Chiacchere)、ガラーニ(Galani)、等々約30以上の呼び名があるんですよ。

 

大事なのは2mm以下の薄さに伸ばして揚げること!

 

口の中でほろほろと溶けていき、ついもう一枚もう一枚と手が伸びてしまいます。

 

ちなみにチェンチ(cenci)の意味はボロ切れという意味で、そう言われたら使い古しの穴あき擦り切れ布のような見かけですね。

 

二つともシンプルな材料なのでおうちでもよく作ります。

 

この日曜日の親戚の家でみんなで作って食べました。

 

でもバールやパン屋さんでも量り売りで召し上がることができるんですよ。

 

これらのお菓子のお供にはヴィンサント(vinsanto)という4年以上熟成させる甘口デザートワインがピッタリです。

 

 

カーニバルの時に皆さんがトスカーナにいらしたら、是非お試しくださいね!

【フィレンツェ観光】ウッフィツイ美術館「冷たい美人の肖像画・ルクレツィア・パンチャーティキ」

今日はウッフィツィ美術館にある、冷たい美人とも言われる肖像画をご案内したいと思います。

 

 

こちらはブロンズィーノが描いた、ルクレツィア・パンチャーティキの肖像画です。

 

ちょっと舌を噛みそうな名前ですね。

 

ブロンズィーノは当時の貴族で、またメディチ家のお抱え肖像画家でもありました。

彼は人物像とその人物の感情を注意深く観察し描くのが特徴です。

 

このパンチャーティキ家は彼の重要なパトロンでした。

左側には彼女の夫であるバルトロメオ.・パンチャーティキの肖像画もあります。

 

 

1541年頃、バルトロメオフィレンツェのアカデミーウミディの会員になったのを記念して描かれのではないかと言われいます。

 

1704年に彼の子孫によって、ウッフィツィ美術館に譲渡されています。

 

このルクレツィアは、実はコジモ一世が大公のなる前に愛人だったそうです。

 

 

しかしコジモ一世にはトスカーナのすべての国を治める野心があった為、政略的なことも考えた上で、この美術館の次の部屋に肖像画があるエレオノーラ・ダ・ トレドと結婚してしまいます。

 

 

ちなみに彼女も美人です。

 

その後、夫となるバルトロメオに出会います。

バルトロメオはピストイアの旧家出身で長年リオンにも住み、フィレンツェ大使の任務も努めていました。

 

ルクレツィアは木工細工の椅子に座っていて、素晴らしい赤色の洋服を着ています。

袖は上が膨らんでいて、下は濃い赤色でリボンがついていますが、これは当時の流行です。

 

特に袖の下の方はリボン緩めて取り外しができて、機会に合わせて違う袖を付けることが出来ました。

当時の他の肖像画にもよくでてくるファッションです。 

 

襟は四角で、金糸の入った透明な生地で飾られています。

背景が黒い為、彼女の姿がはっきり見え、彼女の白い顔が浮かび上がるように見えます。

 

宝石も綺麗で、髪には真珠のついた髪止めをしていて、左手の長い指は椅子の上をしっかり握り、宝石のついた指輪をしています。

 

右手には小さい本をもっていますが、これは彼女の知性を表しています。

 

ベルトにも沢山の宝石が描かれており、首には真珠のネックレスも描かれています。

もう一つシンプルな金の鎖のネックレスをしていますが、そこには小さなプレートが描かれており、フランス語で"amour dure sans fin" (終わりのない愛)という文字が刻まれています。

 

おそらくこれは、夫婦が幸せに過ごしていたことを示しているのでは無いかと言われています。

 

500年たった今でも、幸せな愛情を持ち続けているかのように、2枚の肖像画が近くに飾れています。



とても美しい表情ですが、美しすぎて私達は彼女の貴族性の中に入れないという感じですね。

 

見ている人からずいぶんかけ離れて、私達の住んでいる世界と貴族達の世界との隔絶みたいのが感じられます。

 

私達の方を真っ直ぐ、冷たく、感情なしに見つめています。

 

彼女の肖像画は理想の傑作でありますが、美しいけれどとても冷たさがあので、ヴァザーリ

 

「ブロンズィーノが、彼と彼の妻を自然に描き、まるで生きているようだが、魂に欠ける。」

 

と言っています。

 

ルクレツィアは美しいが悲しみに沈み、遠くを見ているようで、やはりそれはコジモ一世との関係を絶たなければならなかったからなのでは、とつい思ってしまいます。

 

ちなみに絵を描いたブロンズイーノですが、1574年に君主が交代すると彼に対する年金支給が停止され、ついに宮廷の首席画家の地位は名実ともにヴァザーリのものとなります。

 

ただ彼の親しみやすく穏やかな人柄は多くの人に愛され、若い画家達を熱心に指導したこともあって、彼の葬式にはフィレンツェの芸術家で参加しないものはいなかったと伝えられています。

イタリア観光・ヴィアレッジョのカーニバル

私の住むトスカーナも寒くなってきました。裏山の頂上には、雪が積もっています。

2月といえば、イタリアではカーニバルが行われるはずなのですが、今年はコロナの影響で、トスカーナ一有名なティレニア海沿いの町ヴィアレッジョのカーニバルは、9月延期と発表されました。

このヴィアレッジョのカーニバルは、妖艶なヴェネチアの仮面のものとは違い、十数台の山車が海岸沿いの大通り(約2キロメートル)で引き回しされます。

山車といっても大きいものでは20メートルを超え、山車の上の飾りはあらゆる方向に動くので、見ごたえがあります。山車の原料は大部分が紙で作られていて、それをひっぱるのは農業用トラクター一台です。

 

 

山車は、あらかじめ公募コンクールで選ばれたアーティストたちがそれぞれテーマを決めて、9月から作り出します。

そして各アーティストにファンたちが集まり、山車のテーマに合ったコスチュームを自費で作り、当日は山車の上や横で一緒に踊りながらカーニバルに参加します。なので、この応援団と山車はセットで評価されます。

カーニバルの山車回しは計5・6回(週に1度で日曜または土曜や、昼または夕方)あり、毎回人気投票もあるので、最終日に審査員の得点とともに順位を決める重要な要素でもあります。

 

もうすでに9月から山車が作られていたのですが、延期になってしまい、山車製作者側からは不満の声も出ました。

なぜならば、ヴィアレッジョの山車は昨年起きた出来事からテーマを決めるため、半年のずれで、今まさに旬のテーマがもう6ヵ月後には流行おくれになってしまっている可能性もあるからです。

とくに社会、政治風刺がよくきいたものが山車に使われることが多いのでなおさらです。

コロナのことや、環境のことや、アメリカ大統領選挙とかいろいろなテーマが考えられますが、山車を見るのは9月までのお預けとなってしまいました。

今年は仕方がないですね。

 

でも皆さん、2000メートル級の山を眺めながら海水浴が楽しめるヴェルシリア地方にあるヴィアレッジョで、昼は海水浴を、そして夜はカーニバルを楽しんでみませんか。

 

 

子供たちから人気のあったクリスティアーノ・ロナウド選手の山車と仮装した応援団の一部。

 

秋の山車引き回し予定日は、9月18日、26日、10月2日、3日、9日予定です。

詳しくはサイトをどうぞ。viareggio.ilcarnevale.com  

           

          文、撮影 佐藤加代子

フィレンツェ観光・ふと目につく悲しげな顔の装飾の真相!

フィレンンツェの街でまず目に入ってくるのが、大きくて綺麗なドゥオーモ、サンタマリア・デル・フィオーレ教会です。

 

 

この教会は1296年に作り始められた教会で、完成するまでに160年以上かかりました。

 

ただ正面とファサードだけは、途中で未完成まま作業が中止になってしまい、建築家アルノルフォ・ディ・カンビオが作ったその未完成の正面は、もう時代に合わないということで1587年に取り壊されてしまいます。

 

その後、何度か新たに作ろうとしたもののなかなか出来ず、結局1887年に完成し、それが現在の正面とファサードとなります。



ちなみにオリジナルの正面の彫刻などは、ドゥオーモ裏のドゥオーモ博物館にあるので、興味がある方はぜひ行ってみてください。




今日ご紹介するのは、そのファサードの右の扉にある、ブロンズで出来たある人物の小さな自画像の彫刻です。

 

 

実は私も1か月くらい前までその存在を知りませんでした。

 

ファサードには3つのブロンズでできたの扉があります。

 

最初は木の扉だったそうですが、両側の2枚の扉を作る為に1885年に第一回目の、1888年に第二回目のコンクールがありました。

 

そのコンクールでは、既に中央扉を作っていたパッサリア(Passaglia)が一番の人気で、彼が向かって左側の扉も作ることになります。

 

鐘楼の近くにあることから、鐘楼の扉と言われている右側の扉は、ジュセッペ・カッシオーリ(Giuseppe Cassioli)がコンクールで勝利し、作ることになります。

 

彼は、シエナではその才能を認められて有名でしたが、フィレンツェ人は彼が任命されたのをあまり納得していなかったと言われています。

 

カッシオーリはそれまでも色々なプロジェクトから外されていたため、この扉を作成するために情熱をもって望んだと言われてます。

 

彼自身で銅を溶解する許可まで得ていました。

 

作品はとてもダイナミックで独創的で、細かいところまでノミで彫ってあり、光沢もあったのでその技術はとても評価されました。



ただ一方で、納期に遅れていたことや経済的な問題が持ち上がり、1899年6月24日のサンジョバンニのお祭りの日に一般に公開されますが、評価とともに批判もあったとされています。

 

その後、作るにあたってとても苦悩したため、鬱になり落ち込んでしまいます。

 

彼がこの時期に味わった批判、苦悩、不運が実はこの小さい自画像に表れていて、精神的なプレッシャーと再三にわたる支払いや納期の催促に悩まされていたのがわかります。

 

当時のジャーナリストによると、ちょうど反対側にあったギベルティの天国の扉といつも比較されていたようです。

 

その時の自分の精神状態を表すように、右側の扉に作った人物の顔へ自分を表現しています。

 

 

首に蛇がネクタイのように巻き付いており、自分の首を絞めています。

 

これはどうも法律の圧力に耐えきれなかった自分自身を表しているようです。

 

現在この扉が入場入口になっていますので、入る時にちょっと探してみて下さいね。

ただ入口は変わることがありますので注意して下さい。

 

ちなみにドゥオ―モの入場は現在無料ですが、シーズン中は結構並んでいます。

混んでいる時は1時間待ちもありました。

 

実は、内側はクーポラのフレスコ画を除いてはシンプルなので、もし時間に余裕がない場合は、外観だけの観賞をお勧めします。